昭和五十六年三月二十九日 朝の御理解
御理解第九十二節 「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守々の力によって神の比礼が違うのぞ。神の守をしておれば、諸事に身を慎み朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとでは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ」
昨日は熊本の日奈久教会長の富永先生が、毎月月末の御礼参拝の日であります。丁度ここでは竹葉会があっておりますから、竹葉会に参加して、そしてまあおかげを頂いて帰られるわけですが、終わって私いつも夕食を一緒にさしてもらいます。それでこの頃御神酒がやはり頂けませんので、昨日は佐田先生がお相伴役で一緒に食事をさして頂きました。 中で、どういうことからだったでしょうか。本当にこの合楽で、例えば必要なものが必要に応じて集まるというようなこと。そうですね、私があれが本当に欲しいなあと思ったら集まってきますよという話を、お食事の後でしたがさして頂いておりました。
それこそ、あの天地書附ですら集まってきたんですからね。教祖様の御直筆といわれる。教祖様のね。色々ここではそういう働きが一杯あっておりますけれども。私は丁度久富先生も一緒でしたから、あの、ジュースが飲みたい。あの粒粒の入ったあのジュースが「みかんジュースが飲みたいが」と私が申しましたから、すぐ久富先生が立ち上がって行かれたら、えらい早う来たと思ったら、誰か女の修行生の方、誰でしたでしょうか、田原さんでしたでしょうか、御用しとりましたが、こうやって持って来よるです。「おろあんた親先生がジュース飲むち言いなさったつ知っとったの」「いいえ」ち、ただ食事飯後にまあ要られるだろうとこう思ったんでしょう。 そういう時に、富永先生感じられること。また佐田先生が感じたであろうと思うこと。本当に例えば私が必要だと思ったら、もうそこに実際はあるんだと必要なものが。それをお互いが頂き止めきらんのだと。
例えば、この耳納山の山頂で、正義先生と文男先生でしたでしょうか。あちらの何かで、あの何とかラインが耳納ラインが出来た時に、初めてあちらの、ここん丁度真上にあたる所まで行きました。丁度糖尿病のやっぱ気が付かなかったけど、だったんでしょう。非常に喉が渇く。「ああ喉が渇くばい」と言うとったら、薮の中に何か冷蔵庫のようなものが押し倒したようにして置いてある。こう開けてみたら中にジュースが入っていた。これ
は耳納山の言うなら頂上ででもです。私が飲みたいと、飲みたいと思うたらそこにあるんだと。まあそういう例を挙げればきりがないですけれどもね。
昨日なんかはそういう話をしておるところへそういう働きが起こって参りますから、成程だなあ。そして御取次をさして頂くのにはどうしても霊徳を受けなければならない。まあお伺いの一つも出来なければ出来ませんと言う話でしたが、問題は霊徳と神徳の違いについてまあ色々お話しをしたことです。
神徳というのはね、例えば私が「助かる」と言うたら助かる。別に霊徳は別にしても。私が欲しいと思うたら欲しいものが集まってくる。これが天地のバックの証拠である。これが御神徳。色々とお知らせを頂くことはこれは一つの霊徳である。霊徳を軽視するわけではないけれども、ならそれからというて霊徳というものはやっぱり霊徳修行をしなければ頂けないと言う話になりました。
したら、佐田先生が申しますことは、「この頃から一つもお知らせを頂かんごつなりました」とこう言うんですよ。まあ時々霊徳に触れて行きよったんだ。そりけん神様に私お願いさして頂いたら、『加藤清正』ち頂いた。
お互い信心をさして頂いて、合楽では人間が人間らしゅう生きる手立て。しかもそこに御の字を付けて有難いと頂くことこそが本当の信心だ。あれは食べてはならん。こうしてはならんということはない。一切がおかげだ。まあこれを食物訓に申します。例えますならばね、牛は食べてはならん。豚は食べてはならんといったような宗教もやっぱりありますよね。酒は飲んではならんという教えもあります。
けどもそんなこっじゃない。牛であろうが豚であろうがお酒であろうが、私共命のために作って下さった物であるから、頂いてもいいのだけれども、大酒大食は絶食の元になるとおっしゃっている。ね。人間が人間らしゅう一つ加藤清正ということん中から一つ感じ取って頂きたい。加藤というのは加える藤と書いてある。私がいつも申しておりますように、同じ藤でも下へ下がる藤の花よりも、成程下へ下がる藤の花もやはり見上げられて、「はあ美しい」と言いますけれども、信心の修行はどこまでも富士の山でなからにゃいかん。いわゆる修行精神を忘れてはならない。
今日のご理解で言うなら、言うなら身を慎むという、美味しいからと言うて食べすぎた飲みすぎた、そして胃を壊したといったようなことでは、いかに人間らしゅう生き方がというても、それはおかげにはならんのです。ねえそうでしょうが。いわゆる下へ下がる。下へ下がって行く。それがこの頃は度を少し加え過ぎてきた。まだ新婚早々ですからまあ無理もないですけれども、この藤の花が下へ下へとではなくて、やはり[坂を越え 山を越えても 峠かな]というような富士山頂を目指すような、富士の修行じゃなからなければいけないということを頂いたんです。
この頃霊徳に、だから霊徳まだ他に色々適切なことを以てお話さして頂いたことでしたけれども、信心さして頂く者は身を慎むということ。これは勿論お道の教師に対するご理解。富永先生も佐田先生も言うならお道の教師としての取次者としてのお話を昨日は食後
にさして頂いたんですけれども。
これは教師信者拘りないと思うです。「ここでは朝起きということはもう昼の三時間にも匹敵するんだよ」と私はそういうふうに申します。ここんところを言うならば朝起きの大切さをここに書いてございます。教えておられますね。だからそういう言うならば修行なんです。その早起きがね。ああ眠かつば起きらんならんじゃなくて、目覚ましのおかげを頂いたことが有難いとお礼の言えれるような信心を身に付けなければならんのです。
「それには身を慎んでおかんと、なかなか昨夜が言うならば遅うまで頑張ったというので朝目が覚めるのがね、しるしいようなことでは、霊徳には触れられないよ」と言うようなことでしたけれども。これは霊徳神徳受けて行かなければなりません。おかげもお徳も受けて行かなきゃいけません。
その言わば心がけ、合楽では人間が人間らしゅう生きる手立てというものを説きますけれども、なら食物訓にも申しましたように、食べたいから食べると例えば三度三度の食事であるのに、その合間合間にも食べたり、美味しいからと言うて食べすぎたり飲みすぎたりしたんでは、やはり身を慎むことにはなりません。この辺の所をようく一つ分からして頂いての人間が人間らしゅう生きる。そこには人間らしい慎みが要るということでございます。
どうぞ。